このお方が私の主人です

趙 淇善 説教集

「天地創造」のメッセージをまとめてみての感想

最初の2つのメッセージは割とスムーズに書き進めることができたのだけれど

3つ目のこの「天地創造」のメッセージは先の2つよりはるかに長く、

またちょうど末っ子の卒園・入学準備と、我が子3人と甥が一斉に受洗するという想定もしない出来事が起こったため、非常に時間がかかってしまった。
(末っ子と甥は所属するアライアンス教団では前例のない年齢での受洗となったため洗礼着のサイズがなく、彼らと同じく子どもサイズの次女の洗礼着計6着(水に入るため、透けないように重ね着をするべく各2枚ずつ)を大急ぎで縫っていた)


また本音を言うと、この天地創造のメッセージは今の私には「うーん。。ちょっとその解釈は苦しいのではないか?」と感じるところがところどころあり、それがメッセージの直訳でないから起こることなのか、前提としてあるであろうその場の雰囲気や流れ、ニュアンスというものが文字では伝わらないことから起こることなのか、あるいは本当に文字通りそういう意味なのか分からず、途中で校正し続けることが苦しいと感じて作業を中断することが多かったというのもアップが遅くなった一つの理由でもある。


祖父のメッセージとはいえ、自分が文章として手を加える以上、疑問に思うところをそのまま出してしまっていいのか今でも悩むところではあるが

祖父がもうこの世にはいないので確認するすべもない以上、この仕事が祖父や私の弱さや間違いも含めて神様が用いてくださることを信じて祈りをもって書き続けてみようと思う。




天地創造

初めに、神が天と地を創造した。

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

神の霊は水の上を動いていた。

(創世記1章1,2節)



説教の題を天地創造としましたが、あまりにも大きな規模なので、私自身、委縮して少々後悔しています。限られた短い時間に説明しつくすことができません。

神様が創造されたこの大宇宙を前にして、私がどうやって説教できるだろうかという気持ちになります。天地創造。考えるだけでもそれはすごいことです。

けれども、私は1章を2つに分けて、私なりに皆さんと考えてみたいと思います。


その前に、聖書の解釈についてお話いたします。

聖書はいつも3つの側面から解釈しなければなりません。科学的・歴史的事実としての側面、霊的な恵みを与える言葉としての側面、神の預言の書としての側面の3つです。

今日は霊的に解釈し、次の聖日には科学的側面から解釈したいと思います。


普通、聖書は科学的に解釈すべきではない、又は聖書は科学とは関係・関連のない書物だと言われますが、この天地創造の話は科学的側面からみても間違いは一つもありません。聖書とはそういうものなのです。


では霊的解釈をしていきたいと思いますが、その前に序論的なことを2つだけお話いたします。もう一度1章1節を読みましょう。“初めに、神が天と地を創造した。”これは簡単な言葉のようですが、66巻の書物でできている聖書の一番初めに宣告される神の言葉です。

この言葉で聖書がどのような本かということを1目で知ることができます。

ここに全てのことが包含されているのです。


”初めに”というのは宇宙の初めのことです。神が天地を創造されたというところから聖書は始まるのです。

聖書は神様の存在に対する疑念について言及することはありません。
人間が信じようと信じまいと、ついて来ようと来るまいと、そんなことは問題ではないのです。


神様の存在は厳然たる事実なのですから、存在しているかどうかということを証明するべく書かれた箇所は聖書66巻の中に一か所もありませんし、どのようにしたらその存在が分かるかということを教えている箇所もありません。


神様はいらっしゃいます。

神様がいらっしゃるということを前提として聖書は記録されているのです。

20億光年にもなるという気の遠くなるような大宇宙を創造され、支配され、経綸される神がおられるということを、この塵にも等しい人間の頭脳で理解することなどできるでしょうか。

神様が存在するということは誰もこれを否認することもできず、触れることすらできません。聖書は厳粛にそれを宣言します。


どこに神がおられるのかと問う。どれだけ愚かで無知な問いでしょう。

この大自然の中に暮らしていながら、宇宙を創造された神を知らないと否認するということは不敬なことです。


ですから神様は厳粛に「神が天地を創った、お前たちの信仰をここから始めなさい」と権威をもって言われるのです。

神の前にあれこれ言う資格は人間にはありません。これは神の権威です。神の権威をもって人間に宣布されたみ言葉なのです。

神が宇宙を創造された。私はここから信じて従い、頭を下げ、服従しなければなりません。

そうしなければどんなに立派な人が聖書のみ言葉を語っても魂が恵まれないでしょう。


創世記1章1節は人間に対して神様がひざまずけと命令するのです。

ひざまずいて神のみ言葉を聞け、と言われるのです。

ですから皆さんも創世記の講解説教を聞かれるときこの原点から始めてください。



創世記というのは聖書66巻の基礎になる聖書です。この創世記を完全に理解できなければ聖書を理解することはできません。

創世記を完全に理解しなければ私達は正しい信仰生活をすることもできません。

信仰であれ、教理であれ、創世記を知らずしては立つことはできません。ですからこの創世記は大変重要な聖書です。

聖書の歴史というものは色々な学説がありますから、疑問を持つ人が多いのです。この学説のために多くの異端が生まれてきます。ですから気を付けて聞いてください。



保守的な学者は創世記の出来事を

“神が創造された宇宙、更にその中でも人間がサタンの反逆により破壊された”

という風に解釈します。


皆さんも知っておられるように、神様は人間を創造してエデンの園に置かれました。

神様が完璧に作られたのに、そこにサタンが入って来てそれを破壊してしまいました。

そして人はエデンの園から追い出され、戻ることができなくなってしまったのです。

けれども全知全能の神様はその知恵と栄光のために全てを滅ぼしてしまうことをなさいません。破壊された状態を復旧し、原状(元の状態)に戻そうとされるのです。

それが人類の歴史であり、聖書の歴史です。サタンの反逆により破壊された神のみわざを復旧するそのみわざは今現在も継続されています。

その復旧のみわざがいつ完成されるかということも聖書に記されています。ヨハネの黙示録です。

創世記で始まったことが全部ヨハネの黙示録で完成するのです。


例えば創世記で天地が創造され、黙示録21章では新天地が創造されます。

創世記で人間が堕落しますが、黙示録では救いが完成します。

創世記ではエデンの園から追い出されましたが黙示録では楽園に戻るのです。

創世記ではサタンが勝利しましたが、黙示録を見るとサタンは永遠の滅びに入ります。


それから神様はエデンの園から追放する前に獣を殺した皮で衣を作り、アダムとエバにそれを着せてから追放しましたが、

アダムとエバの裸を覆うために流されたその獣の血、それは子羊なるイエスキリストの血によって完成するということが黙示録に現れています。


創世記では革の衣を着せたとありますが、黙示録では白い衣を着るようになります。

白い衣を着て新天新地で神の前で礼拝をするとありますが、この白い衣はキリストの血によって洗われた聖徒たちの衣だというのです。


このように創世記に出てきた事柄はみなヨハネの黙示録で完成するのです。

ですから創世記の理解無くして黙示録を読み解くことはできません。

私達は聖書の全てを知ることはできませんが、この新年最初の礼拝に創世記の講解説教を通して神様がこの教会に大きな恵みを下さることを信じ、信仰の根本からもう一度始めたいと思います。


では創世記の天地創造を順番に見ていきましょう。

これはサタンによって罪を犯し、神の前に呪われ破壊されて、神から離れてしまった人間の霊魂を、神が再び造りかえて元の状態に戻される過程や段階と同じなのです。


まず2節を見てみましょう。

“地は形がなく、何もなかった。”とあります。

地は形が無く、何もなかった、というのは混沌に陥っている状態を意味します。

秩序が無いのです。なぜか。それは礎となる物が無いからです。

神様を知らなかったときの自分自身を思い出してみてください。

自分が何をしているのか何のために生きているのか、心の中に虚しさが、虚無感がありました。混沌の中にいたのです。


私が日本にいた頃も、今も、ある日突然失踪する人がいます。

何年たってもどこにいるのか、生きているのか死んでいるのか分かりません。中年の方に多いようです。

東京には山谷、大阪には釜ヶ崎という家も家族も持たずその日その日の生活をしている人々が集まっているところがあります。

私がそこに行った時、その中に元大学の教授であったり、会社の重役であったりした人達もおられて、彼らから話を聞いたことがあります。

ある日突然人生の虚しさを感じた、というのです。子どもたちは成長して家を出、夫婦だけの生活になります。人生とは一体何か。

朝から晩まであくせくと一生懸命に働き、子どもたちを育て上げ、それぞれが巣立ってしまうと、ふと、人生とはこんなものか。一体人間とは何かと幻滅を感じ、失望し、
そして家を出てしまったというのです。


何も言わず着替えも持たず、人生の吹き溜まりと言われる所に来てその日その日の暮らしをする。お金があれば酒を飲む。生きていく目標を失い、気力を失ってしまったというそのような人が少なからずおられました。


神を知らない人の魂は空虚です。

私たちがイエス様を信じなさいと伝道し、教会にいらっしゃいと誘うのは献金欲しさでしょうか。出席者数の増加を期待してしていることでしょうか。

空しい人々に生きる意味を教え、望みを持たせ、この虚しさから逃れる道を教えるためではないでしょうか。

私たちの人生から神様を取り去ってしまったら、食べるためにひたすらあくせくし、食べ物をあさることが楽しみな犬や豚と何の違いがあるというのでしょうか。

死んでしまえば全て無くなってしまう、神様がおられない人生とはなんと空しいものではないでしょうか。そう思いませんか。


2節は“やみが大いなる水の上にあり、”と続けます。

神様がいない人生はこのように混沌というだけでなく真っ暗です。

このような混沌、暗闇の状態にある人生を神様は造り変えられます。

どのようになるのでしょう。3節以下を読みます。

“そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。

神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。

こうして夕があり、朝があった。第一日。”


 神様は一日目に光を創られました。

神を知らない人を救うために、まず最初に神様は人の暗い心の中に、み言葉によって光を下さるのです。

皆さん、この話を覚えていますか。

イエス様が朝早く神殿で祈っておられるとき、パリサイ人達が罪の現場からそのまま引きずってきた女を連れてきました。

そして「モーセの立法では、罪を犯した女は石で打ち殺せとあるが、あなたはどうするか」と迫りました。

その時イエス様は何と言われたでしょうか。

「あなた方の中で罪のない人が最初に石を投げなさい」と言われました。

そして誰も石を投げる者がいなかったのです。

どうしてでしょうか。イエス様のみ言葉が真っ暗な心の中に光として入ったからではないでしょうか。


真っ暗な闇に光が差し込むと今まで見えなかったものが見えるようになるように、自分の心に光が入ってくると、今まで義人だと思っていた自分が、罪人であることが見えるようになるのです。ですから誰も石を投げることができませんでした。


誰かが悔い改めなさいと言ったからといって悔い改めることができるわけではありません。

神様のみ言葉が心の中に入って照らす時に、自分の凶悪な、汚れた醜い私、趙 淇善の姿が見えるようになるのです。これが神のみわざです。

神様のみ言葉が私の心に入って来なければ、だれがどんなことを言っても自分がどういう人間かということを知ることもできないのです。

光が入らなければなりません。

神のみわざはまず光が心を照らすところから始まるのです。



次に第2日目に行きましょう。6節から8節までを読みます。


“ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。”


2日目には大空、天が作られました。
皆さん、失望することがあったときうなだれていると何の希望も持てませんが、天を仰ぐとき「ああ、私は大丈夫だ」と思いませんか。
大空、天は私たちの希望を呼び起こします。


先ほど光の話をしましたが、光が私の心に入ると自分の醜さが明らかにされるので、「趙淇善、これは大変なことだ。こんな醜悪な者がどこにいるか。ほんとに私は全く救い難い人間だ」と失望するのです。

けれども、大空が見えます。天を仰ぎます。ここに希望が出てくるのです。

皆さん、いつでも上を見上げましょう。


英国の孤児院の創始者、ジョージ・ミュラーという方はお金がない中でも、ただ神様を信じ、頼ることによって多くの孤児達を養いました。その彼の実話の中に、このような話があります。


ある雪の朝、数百人にもなる子供たちが食堂に集まっているのに食べさせるものがありません。

心配する人々に「神様が下さるから大丈夫。食膳の祈りをしなさい」と彼が言ったちょうどその時、馬車の音がして、パン工場の主人が「今朝祈っていると孤児院にパンを持っていくようにと示されたので持ってきました」とたくさんのパンを置いて行ったのです。
ミュラーは涙を流しながら「おお、主よ。感謝いたします。」と主を褒めたたえました。そして「サタンは私たちの周囲に壁を作ってふさぐことはできるが、蓋をすることはできない」と言ったのです。


サタンは私たちを封じ込めても、天につながる蓋をすることはできません。たとえ獄につながれても天の神様と通じることができます。

パウロを見てください。ペテロを見てください。手足を鎖で縛られても、賛美をしている時地震が起こり、手足の鎖が切れ、獄門が開いて外に出ることができたのです。

上をふさぐことはできません。ハレルヤ!
大空、これは希望です。サタンは蓋をすることはできません。

周囲だけを見れば失望、落胆することばかりです。もうこれでおしまいだ。望みがない、と思うのです。

けれども皆さん、そのようなときには上を見上げなさい。
天を仰ぎなさい。

そこには十字架があり、主の御座があります。

人の顔色や、思惑等、横を見ないで天を仰ぎなさい。そこに望みがあります。



次に3日目です。

9節から13節までです。

“神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」と仰せられた。

するとそのようになった。

神は、かわいた所を地と名付け、水の集まった所を海と名づけられた。

神は見て、それをよしとされた。

神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。

それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類に従って、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。

こうして夕があり、朝があった。第三日。”


3日目には地と海が創られました。

地に色々な植物が生えて実を結ぶようになったから、そのあと動物が創られてもそれを食べて生きていくことができるのです。

地は神様の愛です。


次に4日目です。
14節から19節を見ましょう。
“ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、年のために、役立て。
天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。
それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それを良しとされた。
こうして夕があり、朝があった。第四日。”


ここで太陽と月という二つの光る物と星が造られました。
ヨハネ伝8章12節で「私は世の光です」

また、マタイ伝5章14節で「あなたがたは、世界の光です」と言われたイエス様の言葉から、この光る物の創造の業を霊的に解釈すると、太陽はイエスキリスト、月は信じる聖徒を示します。

そして星は先に召された聖徒達、または天使達を意味します。

神のみ言葉が私たちの心に入って光となり私たちが自分の姿が見えるようになった後、

その光が二つに分かれて主ご自身であるイエス様の光と、イエス様の光を受けて反射する月のような役割を私たちはこの世に対して果たさなければならないということを私たちは教えられるのです。


次に5日目です。

20節から23節を読みましょう。

“ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。

それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」

こうして夕があり、朝があった。第五日。”


4日目までは植物だけしかなかったので、この地球上に何の音声もなかったのです。

しかし5日目に作られた鳥や水の中の生き物、6日目に作られた生き物、家畜や、はうもの、その種類に従って造られた野の獣たちの声が響くようになりました。

皆さん、もしこの地球上に人も動物もいなければ、死の世界のように静まり返っていることでしょう。

同じように光が入って神の愛を悟り、イエスキリストの光を受けて救われたらその魂は生き生きと動き、声を上げずにいられなくなります。
沈黙していた救われる前の魂は救われるとじっとしておれなくなるのです。


次に6日目です。

26節から31節までを読みましょう。

“そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。

また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物としてすべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。”


神様は人を「われわれに似るように、われわれのかたちに、」造られました。

救いの終局、聖徒達の最後の姿はこのように神のかたちに似ていくことなのです。

これをはっきりと覚えておいてください。

心に銘じてください。

私達イエスを信じる者たちが信仰生活をするその目標はイエスキリストに似ていくことです。

パウロはガラテヤ書で“私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなた方のために産みの苦しみをしています。”と伝えました。

イエスキリストが私たちのうちに形造られるのです。それが私たちの救いの完成です。

いつもイエス様を思ってください。

イライラした時にも、イエス様のことを思ってください。

怒りがこみ上げてくる時にもイエス様を思ってください。

何か不愉快なことがあってもイエス様のことを思ってください。イエス様のみ姿を思い出してください。

そしてイエス様がうちに形造られるように願ってください。

これが私たちの信仰の目標です。


礼拝堂を立てるのも、伝道して会員が増えるのも、献金がたくさんなされるのも目標にはなります。けれども、何よりも重要なことは、聖徒一人一人の心のうちにイエスキリストが形造られることです。信仰の極致です。

これが目標でなければ、礼拝堂を立てても信徒が増えても豊かになっても何の意味もありません。

イエスキリストが私のうちに形造られること、これが教会の最高の目標で、信仰生活の最高の目的なのです。

心に銘じてください。

これに向かって行かないから人間的な匂いがし、不平不満がたまってしまいます。

イエスキリストが私のうちに形造られること、これが最高の目標です。


最後に7日目を見ましょう。

2章1節から3節までです。

“こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。”


キリストが私のうちに形造られたら、その時に本当の安息があります。

平和です。心配がありません。誰の顔色を見ることもありません。

聖徒達と会えばお互いに嬉しくなるはずです。それが教会ではありませんか。

皆さん、主がうちにおられるならばどのようなことにも勝利することができます。

喜びがあります。平和があります。安息があります。

主と近く交わることができるのです。

「主よ、どうしてこんなにも私を愛してくださるのですか。助けてくださるのですか。大事にしてくださるのですか。」という祈りが自然に出てきませんか。

このような恩寵の一年になることを願います。祈りましょう。


愛する主よ。私の心を開きます。心の門を開きましたから私のうちに入ってくださり、今年一年の生活の中で私の心を守り導いてください。

真の平和があり、真の喜びがあり、真の安息があるようにしてください。

おお主よ、私と共にいて下さい。共に歩いてください。

イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。


1988年1月3日


主の喜ばれる捧げ物

イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。

そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。

彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。私の民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから』」

そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。

そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。

その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

(マタイ2:1~11)



ここに東方から博士たちが来た、とあります。この東方というのは一体どこのことを言ってるのでしょうか。
これは現在のイラン、イラクにあたる、昔のペルシャ帝国のことです。


当時この国は哲学、天文学、医学、自然科学が非常に発達しておりました。
博士も現代の博士と違ってあらゆる学問に秀でた人達で、とても博学でした。
中でも天文学は深く研究されており、彼らは常に空を見ていたそうです。

そしてある時大きな星を発見したのです。

歴史を見ると、天変地異があるとか、大事件がある時とか、偉大な王が生まれる時に、天に異象が現れたといいます。


この博士たちはこの星を見てユダヤ人の王が生まれたことを知り、その王を拝むために星についてユダヤの国まできたというのです。
そしてユダヤの首都エルサレムに行けば何かわかるだろうとヘロデ王の所にやってきました。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

博士たちがそのように言うのを聞いて、ヘロデ王もエルサレム中の人も恐れ惑い大騒ぎになったのです。

王は民の祭司長たち、学者たちを集めました。

この学者というのは旧約聖書の専門家です。彼らにユダヤの王はどこに生まれるのか調べるように命じたのです。

学者たちは預言者によって書かれた聖書の言葉から、そこがベツレヘムであるということを王に知らせました。


ここに面白い現象を見ることができます。赤子イエスが生まれたという噂を聞いて3つの反応が起こったのです。


真っ先にヘロデの心に起きました。憎悪と敵愾心が湧き上がったのです。

王が生まれたという消息を聞いて、ヘロデは心穏やかではありませんでした。不安のあまり、赤子イエスを殺すためにベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。

なぜヘロデはこれほどまでにイエスを憎んだのでしょうか。

もちろん自分の王位が危ないという警戒心もあります。

でもそれだけではなく、よく考えると私たちの中にもある心理が働いているようです。

イエスが自分の心に入って来られるとかイエスが自分の家庭に来られることを恐れる気持ちです。

イエスが私の心におられると嘘をつくことができません。自分の生活を変えなければならなくなります。これが嫌でイエスを受け入れようとせず、遠ざける魂が私たちの中にある。私たちはそれを忘れてはなりません。


次は祭司長、学者たちです。王は彼らにユダヤの王はどこに生まれるかと尋ねました。

この「ユダヤの王」はどこにでもいる王様とは意味が違います。特別な王です。

学者たちはミカ書にある預言を引用してベツレヘムで生まれることを告げました。

彼らは預言書を通してメシアが生まれることを良く知っていながら、自分達はベツレヘムに行こうともしなかったのです。
とてもおかしなことではないでしょうか?ベツレヘムはそう遠くないのですから、好奇心からだけでも行ってみようという気がなぜ起きなかったのでしょうか。

無関心です。ドンケヤ。これもまた、私達の心の中にあります。

教会で何があっても、教会がどうなっても、神の福音がどうなっていっても無関心なのです。知っているのは皆知っています。聖書のこともよく知っています。

でも、ベツレヘムへ行こうとはしません。

今日、このような信徒がたくさんいます。頭で分かっていても知識を持っていても、真心からイエスキリストを礼拝することをしようとしません。

知っていることと実際に行動することは全然違うのです。

クリスチャンは特に注意しなければなりません。信仰と生活は別々のものではないのです。

信じたらその教えのとおり生活をしなければなりません。

愛せよ、とあれば愛さなければなりません。

耐え忍べ、とあれば、我慢しなければなりません。

喜べ、とあれば喜ばなければなりません。

祈れ、とあれば祈らなければなりません。

どんなによく知っていても、実践しなければ何にもならないのです。

信仰のベツレヘムへ行きましょう。行って赤子イエスを見なければなりません。


3番目は賛美と礼拝をささげにイエスのもとに行った人々、博士たちです。9節を見ると

“すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。”と書いてあります。

賛美と喜びをもって彼らは赤子イエスを礼拝したのです。


このようにベツレヘムでイエスが生まれたということに対して3通りの反応、3つの部類の人をここで見ることができます。

憎悪と敵愾心を持った人。

無関心な人。

そして、賛美と喜びで礼拝をした人です。



更に博士たちがどのようにして礼拝をささげに来たか見てみましょう。

この博士たちは手ぶらで来たのではありません。この時代までは王に接見するには贈り物が必要でした。ですから、この博士たちもそれぞれ贈り物を持ってきたのです。

黄金、乳香、没薬です。

これは深い意味を持つ象徴的な物でした。神様はこの博士たちの贈り物を通して、この赤子が誰であるかを知らせようとなさったのです。

これらの物は大変高価な物でした。この後ヘロデが幼い男子を殺すという暴挙を起こす前に、天使がヨセフの夢に現れてエジプトに逃れるように示しましたが、エジプトでの避難生活にこの高価な贈り物が役に立ったことでしょう。

けれども、それよりもっと大事なことがあります。

この贈り物一つ一つに大きな意味があるのです。


まず黄金です。金というのは変質しません。これは生ける神の永遠性を表しています。また金属の中の王、実際に王族が使うロイヤルカラー、王を象徴する色です。

東洋でも西洋でも同じです。

黄金という贈り物は赤子イエスが永遠なる神の子であり、王の王としてこられたことを暗示するものなのです。


次に乳香です。これはアラビア地方にだけできる、至って高価な香料です。

昔、祭司が神の前に政をするときにこの乳香を使いました。

祭司の長、祭司長という言葉の原語は「橋」という意味なのです。つまり祭司長は人間と神の間に橋を架ける役割をする者なのです。
イエス様は私たち人間と神との間に橋を架けるために来られた方なのです。

私たち人間は生まれながらにして罪を持っていますから、神の国に行くことはできません。死ぬと刑罰を受けて永遠の滅びに行かねばなりませんでした。

けれどもイエス様が来られて、死の川に橋をかけて神のおられるところ、天国に行けるようにしてくださいました。

 

この間の火曜日の夜、退院された方をお見舞いに行きました。ガンで長い間苦労された方ですが、もう長くはないという知らせを聞いて訪問しました。

彼は水ものどを通らない状態なので、栄養剤を血管を通して流し込んでいました。

ガンの末期で痛みも激しいので、モルヒネを液の中に混ぜて点滴をしなければ到底我慢することもできません。そのような状態の中でも彼はとても明朗なので、私は内心驚きました。

“どこがどうなっていて、もう長くは生きておられないと医者が言った”ということまで詳しく話してくれました。そして“先生、私はとても平安です”というのです。
実は、聖書のどこの御言葉を読もうかと私はずっと考えていたにもかかわらず、椅子に座るときまでみ言葉を探すことができずにいたのです。

何とか御言葉をもって慰めなければいけないのに、なかなか決まらないでいました。

しかし、礼拝をする前に彼の顔は輝き確信に満ち溢れていたのです。

皆さん、どうして彼が平安のうちにおれるのか分かりますか。
この世での命がもう長くはないと知っていても、イエスキリストが橋をかけてくださったから、永遠の国、神の国に入ることができるという確信を持っているからです。

これが本当の信仰です。

彼は何度もシアトルの病院に入院したので、そのたびに長時間聖書の話をいたしましたが、帰る時には私の方が却って恵まれ、慰められたものでした。

まだ若い妻も幼い子供もいる人です。けれども彼はモルヒネを打ちながらもその心は平安で、顔は輝いているのです。それはイエスキリストの救いの橋を信じていたからです。


博士たちがささげた三番目の物は没薬でした。

これは昔、王や貴人たちが死んだときに、その死体に塗る薬で一種の防腐剤です。
ですから人が死んだときに持っていくものです。

これを赤ちゃんが生まれた時に持って行ったのですから、本当なら非常識と言われるでしょう。

けれどもこれは、「この方は死ぬために来られた」ということを神様が私たちに暗示してくださるための贈り物でした。

この赤子は死ぬために生まれた。それもただ死ぬのではなく、私達全人類の罪を背負って、十字架にかかって死んでくださる飯屋として来られた方であることを、この没薬を通して私たちに示されたのです。


ですから、この黄金(王)・乳香(祭司)・没薬(十字架の贖いの死)という3つの捧げ物は、この赤子こそ何千年もの間に旧約聖書に預言されてた予言されていたメシヤ、キリストであるということを証明するものなのです。


この夏私はロンドンのセントポール寺院に行って、そこで有名な絵を見ました。

それはイエス様が門の前に立って戸を叩いておられる絵です。

私はその絵の前から足が離れませんでした。長い時間、じっとその絵に吸い付けられてしまいました。

片手に明かりを持ち、しっかりと閉ざされた扉を叩いておられる姿。その扉には取っ手がありません。中からしか開けられないのです。

夜露に濡れ、疲れたご様子のイエス様の絵を見る時に「われ戸の外に立ちてたたく、だれにてもわが声を聞いて開くなら、われなんじとともにあり、ともに食せん」というみ言葉を思い出しました。

主は今も戸を叩き、開かれるのを待っておられ、私達の心に入られることを願われ、私達の家庭に入られることを願っておられます。
そのことを忘れてはなりません。イエスさまを忘れないクリスマス、いえ、心の戸を開いて家庭の門を開いて心からイエス様を迎えるクリスマスであることを願います。

祈りましょう。


愛する天のお父様。多くの人々がお祭り気分で浮かれているこの頃です。

けれども主は今もお泊りになるところもなくさまよい、各家の戸を叩かれながら、迎えてくれる魂を探しておられると思います。

おお主よ、今心の扉を開きますから、私の心に嘔吐してお入りください。この教会に主が王として来られ、私達を支配してください。

私達を主の御心のままに、主のご命令通りに、主の導きのままにお従いする者としてください。

たとえその道が険しくても、いばらの道であったとしても、十字架に連なる道であったとしても、主と共に』歩くという決心を持つクリスマスとしてください。
主よ、私の心にお入りください。
イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。


1987年クリスマス