このお方が私の主人です

趙 淇善 説教集

主の喜ばれる捧げ物

イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。

そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。

彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。私の民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから』」

そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。

そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。

その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

(マタイ2:1~11)



ここに東方から博士たちが来た、とあります。この東方というのは一体どこのことを言ってるのでしょうか。
これは現在のイラン、イラクにあたる、昔のペルシャ帝国のことです。


当時この国は哲学、天文学、医学、自然科学が非常に発達しておりました。
博士も現代の博士と違ってあらゆる学問に秀でた人達で、とても博学でした。
中でも天文学は深く研究されており、彼らは常に空を見ていたそうです。

そしてある時大きな星を発見したのです。

歴史を見ると、天変地異があるとか、大事件がある時とか、偉大な王が生まれる時に、天に異象が現れたといいます。


この博士たちはこの星を見てユダヤ人の王が生まれたことを知り、その王を拝むために星についてユダヤの国まできたというのです。
そしてユダヤの首都エルサレムに行けば何かわかるだろうとヘロデ王の所にやってきました。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

博士たちがそのように言うのを聞いて、ヘロデ王もエルサレム中の人も恐れ惑い大騒ぎになったのです。

王は民の祭司長たち、学者たちを集めました。

この学者というのは旧約聖書の専門家です。彼らにユダヤの王はどこに生まれるのか調べるように命じたのです。

学者たちは預言者によって書かれた聖書の言葉から、そこがベツレヘムであるということを王に知らせました。


ここに面白い現象を見ることができます。赤子イエスが生まれたという噂を聞いて3つの反応が起こったのです。


真っ先にヘロデの心に起きました。憎悪と敵愾心が湧き上がったのです。

王が生まれたという消息を聞いて、ヘロデは心穏やかではありませんでした。不安のあまり、赤子イエスを殺すためにベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。

なぜヘロデはこれほどまでにイエスを憎んだのでしょうか。

もちろん自分の王位が危ないという警戒心もあります。

でもそれだけではなく、よく考えると私たちの中にもある心理が働いているようです。

イエスが自分の心に入って来られるとかイエスが自分の家庭に来られることを恐れる気持ちです。

イエスが私の心におられると嘘をつくことができません。自分の生活を変えなければならなくなります。これが嫌でイエスを受け入れようとせず、遠ざける魂が私たちの中にある。私たちはそれを忘れてはなりません。


次は祭司長、学者たちです。王は彼らにユダヤの王はどこに生まれるかと尋ねました。

この「ユダヤの王」はどこにでもいる王様とは意味が違います。特別な王です。

学者たちはミカ書にある預言を引用してベツレヘムで生まれることを告げました。

彼らは預言書を通してメシアが生まれることを良く知っていながら、自分達はベツレヘムに行こうともしなかったのです。
とてもおかしなことではないでしょうか?ベツレヘムはそう遠くないのですから、好奇心からだけでも行ってみようという気がなぜ起きなかったのでしょうか。

無関心です。ドンケヤ。これもまた、私達の心の中にあります。

教会で何があっても、教会がどうなっても、神の福音がどうなっていっても無関心なのです。知っているのは皆知っています。聖書のこともよく知っています。

でも、ベツレヘムへ行こうとはしません。

今日、このような信徒がたくさんいます。頭で分かっていても知識を持っていても、真心からイエスキリストを礼拝することをしようとしません。

知っていることと実際に行動することは全然違うのです。

クリスチャンは特に注意しなければなりません。信仰と生活は別々のものではないのです。

信じたらその教えのとおり生活をしなければなりません。

愛せよ、とあれば愛さなければなりません。

耐え忍べ、とあれば、我慢しなければなりません。

喜べ、とあれば喜ばなければなりません。

祈れ、とあれば祈らなければなりません。

どんなによく知っていても、実践しなければ何にもならないのです。

信仰のベツレヘムへ行きましょう。行って赤子イエスを見なければなりません。


3番目は賛美と礼拝をささげにイエスのもとに行った人々、博士たちです。9節を見ると

“すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。”と書いてあります。

賛美と喜びをもって彼らは赤子イエスを礼拝したのです。


このようにベツレヘムでイエスが生まれたということに対して3通りの反応、3つの部類の人をここで見ることができます。

憎悪と敵愾心を持った人。

無関心な人。

そして、賛美と喜びで礼拝をした人です。



更に博士たちがどのようにして礼拝をささげに来たか見てみましょう。

この博士たちは手ぶらで来たのではありません。この時代までは王に接見するには贈り物が必要でした。ですから、この博士たちもそれぞれ贈り物を持ってきたのです。

黄金、乳香、没薬です。

これは深い意味を持つ象徴的な物でした。神様はこの博士たちの贈り物を通して、この赤子が誰であるかを知らせようとなさったのです。

これらの物は大変高価な物でした。この後ヘロデが幼い男子を殺すという暴挙を起こす前に、天使がヨセフの夢に現れてエジプトに逃れるように示しましたが、エジプトでの避難生活にこの高価な贈り物が役に立ったことでしょう。

けれども、それよりもっと大事なことがあります。

この贈り物一つ一つに大きな意味があるのです。


まず黄金です。金というのは変質しません。これは生ける神の永遠性を表しています。また金属の中の王、実際に王族が使うロイヤルカラー、王を象徴する色です。

東洋でも西洋でも同じです。

黄金という贈り物は赤子イエスが永遠なる神の子であり、王の王としてこられたことを暗示するものなのです。


次に乳香です。これはアラビア地方にだけできる、至って高価な香料です。

昔、祭司が神の前に政をするときにこの乳香を使いました。

祭司の長、祭司長という言葉の原語は「橋」という意味なのです。つまり祭司長は人間と神の間に橋を架ける役割をする者なのです。
イエス様は私たち人間と神との間に橋を架けるために来られた方なのです。

私たち人間は生まれながらにして罪を持っていますから、神の国に行くことはできません。死ぬと刑罰を受けて永遠の滅びに行かねばなりませんでした。

けれどもイエス様が来られて、死の川に橋をかけて神のおられるところ、天国に行けるようにしてくださいました。

 

この間の火曜日の夜、退院された方をお見舞いに行きました。ガンで長い間苦労された方ですが、もう長くはないという知らせを聞いて訪問しました。

彼は水ものどを通らない状態なので、栄養剤を血管を通して流し込んでいました。

ガンの末期で痛みも激しいので、モルヒネを液の中に混ぜて点滴をしなければ到底我慢することもできません。そのような状態の中でも彼はとても明朗なので、私は内心驚きました。

“どこがどうなっていて、もう長くは生きておられないと医者が言った”ということまで詳しく話してくれました。そして“先生、私はとても平安です”というのです。
実は、聖書のどこの御言葉を読もうかと私はずっと考えていたにもかかわらず、椅子に座るときまでみ言葉を探すことができずにいたのです。

何とか御言葉をもって慰めなければいけないのに、なかなか決まらないでいました。

しかし、礼拝をする前に彼の顔は輝き確信に満ち溢れていたのです。

皆さん、どうして彼が平安のうちにおれるのか分かりますか。
この世での命がもう長くはないと知っていても、イエスキリストが橋をかけてくださったから、永遠の国、神の国に入ることができるという確信を持っているからです。

これが本当の信仰です。

彼は何度もシアトルの病院に入院したので、そのたびに長時間聖書の話をいたしましたが、帰る時には私の方が却って恵まれ、慰められたものでした。

まだ若い妻も幼い子供もいる人です。けれども彼はモルヒネを打ちながらもその心は平安で、顔は輝いているのです。それはイエスキリストの救いの橋を信じていたからです。


博士たちがささげた三番目の物は没薬でした。

これは昔、王や貴人たちが死んだときに、その死体に塗る薬で一種の防腐剤です。
ですから人が死んだときに持っていくものです。

これを赤ちゃんが生まれた時に持って行ったのですから、本当なら非常識と言われるでしょう。

けれどもこれは、「この方は死ぬために来られた」ということを神様が私たちに暗示してくださるための贈り物でした。

この赤子は死ぬために生まれた。それもただ死ぬのではなく、私達全人類の罪を背負って、十字架にかかって死んでくださる飯屋として来られた方であることを、この没薬を通して私たちに示されたのです。


ですから、この黄金(王)・乳香(祭司)・没薬(十字架の贖いの死)という3つの捧げ物は、この赤子こそ何千年もの間に旧約聖書に預言されてた予言されていたメシヤ、キリストであるということを証明するものなのです。


この夏私はロンドンのセントポール寺院に行って、そこで有名な絵を見ました。

それはイエス様が門の前に立って戸を叩いておられる絵です。

私はその絵の前から足が離れませんでした。長い時間、じっとその絵に吸い付けられてしまいました。

片手に明かりを持ち、しっかりと閉ざされた扉を叩いておられる姿。その扉には取っ手がありません。中からしか開けられないのです。

夜露に濡れ、疲れたご様子のイエス様の絵を見る時に「われ戸の外に立ちてたたく、だれにてもわが声を聞いて開くなら、われなんじとともにあり、ともに食せん」というみ言葉を思い出しました。

主は今も戸を叩き、開かれるのを待っておられ、私達の心に入られることを願われ、私達の家庭に入られることを願っておられます。
そのことを忘れてはなりません。イエスさまを忘れないクリスマス、いえ、心の戸を開いて家庭の門を開いて心からイエス様を迎えるクリスマスであることを願います。

祈りましょう。


愛する天のお父様。多くの人々がお祭り気分で浮かれているこの頃です。

けれども主は今もお泊りになるところもなくさまよい、各家の戸を叩かれながら、迎えてくれる魂を探しておられると思います。

おお主よ、今心の扉を開きますから、私の心に嘔吐してお入りください。この教会に主が王として来られ、私達を支配してください。

私達を主の御心のままに、主のご命令通りに、主の導きのままにお従いする者としてください。

たとえその道が険しくても、いばらの道であったとしても、十字架に連なる道であったとしても、主と共に』歩くという決心を持つクリスマスとしてください。
主よ、私の心にお入りください。
イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。


1987年クリスマス