このお方が私の主人です

趙 淇善 説教集

天地創造

初めに、神が天と地を創造した。

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

神の霊は水の上を動いていた。

(創世記1章1,2節)



説教の題を天地創造としましたが、あまりにも大きな規模なので、私自身、委縮して少々後悔しています。限られた短い時間に説明しつくすことができません。

神様が創造されたこの大宇宙を前にして、私がどうやって説教できるだろうかという気持ちになります。天地創造。考えるだけでもそれはすごいことです。

けれども、私は1章を2つに分けて、私なりに皆さんと考えてみたいと思います。


その前に、聖書の解釈についてお話いたします。

聖書はいつも3つの側面から解釈しなければなりません。科学的・歴史的事実としての側面、霊的な恵みを与える言葉としての側面、神の預言の書としての側面の3つです。

今日は霊的に解釈し、次の聖日には科学的側面から解釈したいと思います。


普通、聖書は科学的に解釈すべきではない、又は聖書は科学とは関係・関連のない書物だと言われますが、この天地創造の話は科学的側面からみても間違いは一つもありません。聖書とはそういうものなのです。


では霊的解釈をしていきたいと思いますが、その前に序論的なことを2つだけお話いたします。もう一度1章1節を読みましょう。“初めに、神が天と地を創造した。”これは簡単な言葉のようですが、66巻の書物でできている聖書の一番初めに宣告される神の言葉です。

この言葉で聖書がどのような本かということを1目で知ることができます。

ここに全てのことが包含されているのです。


”初めに”というのは宇宙の初めのことです。神が天地を創造されたというところから聖書は始まるのです。

聖書は神様の存在に対する疑念について言及することはありません。
人間が信じようと信じまいと、ついて来ようと来るまいと、そんなことは問題ではないのです。


神様の存在は厳然たる事実なのですから、存在しているかどうかということを証明するべく書かれた箇所は聖書66巻の中に一か所もありませんし、どのようにしたらその存在が分かるかということを教えている箇所もありません。


神様はいらっしゃいます。

神様がいらっしゃるということを前提として聖書は記録されているのです。

20億光年にもなるという気の遠くなるような大宇宙を創造され、支配され、経綸される神がおられるということを、この塵にも等しい人間の頭脳で理解することなどできるでしょうか。

神様が存在するということは誰もこれを否認することもできず、触れることすらできません。聖書は厳粛にそれを宣言します。


どこに神がおられるのかと問う。どれだけ愚かで無知な問いでしょう。

この大自然の中に暮らしていながら、宇宙を創造された神を知らないと否認するということは不敬なことです。


ですから神様は厳粛に「神が天地を創った、お前たちの信仰をここから始めなさい」と権威をもって言われるのです。

神の前にあれこれ言う資格は人間にはありません。これは神の権威です。神の権威をもって人間に宣布されたみ言葉なのです。

神が宇宙を創造された。私はここから信じて従い、頭を下げ、服従しなければなりません。

そうしなければどんなに立派な人が聖書のみ言葉を語っても魂が恵まれないでしょう。


創世記1章1節は人間に対して神様がひざまずけと命令するのです。

ひざまずいて神のみ言葉を聞け、と言われるのです。

ですから皆さんも創世記の講解説教を聞かれるときこの原点から始めてください。



創世記というのは聖書66巻の基礎になる聖書です。この創世記を完全に理解できなければ聖書を理解することはできません。

創世記を完全に理解しなければ私達は正しい信仰生活をすることもできません。

信仰であれ、教理であれ、創世記を知らずしては立つことはできません。ですからこの創世記は大変重要な聖書です。

聖書の歴史というものは色々な学説がありますから、疑問を持つ人が多いのです。この学説のために多くの異端が生まれてきます。ですから気を付けて聞いてください。



保守的な学者は創世記の出来事を

“神が創造された宇宙、更にその中でも人間がサタンの反逆により破壊された”

という風に解釈します。


皆さんも知っておられるように、神様は人間を創造してエデンの園に置かれました。

神様が完璧に作られたのに、そこにサタンが入って来てそれを破壊してしまいました。

そして人はエデンの園から追い出され、戻ることができなくなってしまったのです。

けれども全知全能の神様はその知恵と栄光のために全てを滅ぼしてしまうことをなさいません。破壊された状態を復旧し、原状(元の状態)に戻そうとされるのです。

それが人類の歴史であり、聖書の歴史です。サタンの反逆により破壊された神のみわざを復旧するそのみわざは今現在も継続されています。

その復旧のみわざがいつ完成されるかということも聖書に記されています。ヨハネの黙示録です。

創世記で始まったことが全部ヨハネの黙示録で完成するのです。


例えば創世記で天地が創造され、黙示録21章では新天地が創造されます。

創世記で人間が堕落しますが、黙示録では救いが完成します。

創世記ではエデンの園から追い出されましたが黙示録では楽園に戻るのです。

創世記ではサタンが勝利しましたが、黙示録を見るとサタンは永遠の滅びに入ります。


それから神様はエデンの園から追放する前に獣を殺した皮で衣を作り、アダムとエバにそれを着せてから追放しましたが、

アダムとエバの裸を覆うために流されたその獣の血、それは子羊なるイエスキリストの血によって完成するということが黙示録に現れています。


創世記では革の衣を着せたとありますが、黙示録では白い衣を着るようになります。

白い衣を着て新天新地で神の前で礼拝をするとありますが、この白い衣はキリストの血によって洗われた聖徒たちの衣だというのです。


このように創世記に出てきた事柄はみなヨハネの黙示録で完成するのです。

ですから創世記の理解無くして黙示録を読み解くことはできません。

私達は聖書の全てを知ることはできませんが、この新年最初の礼拝に創世記の講解説教を通して神様がこの教会に大きな恵みを下さることを信じ、信仰の根本からもう一度始めたいと思います。


では創世記の天地創造を順番に見ていきましょう。

これはサタンによって罪を犯し、神の前に呪われ破壊されて、神から離れてしまった人間の霊魂を、神が再び造りかえて元の状態に戻される過程や段階と同じなのです。


まず2節を見てみましょう。

“地は形がなく、何もなかった。”とあります。

地は形が無く、何もなかった、というのは混沌に陥っている状態を意味します。

秩序が無いのです。なぜか。それは礎となる物が無いからです。

神様を知らなかったときの自分自身を思い出してみてください。

自分が何をしているのか何のために生きているのか、心の中に虚しさが、虚無感がありました。混沌の中にいたのです。


私が日本にいた頃も、今も、ある日突然失踪する人がいます。

何年たってもどこにいるのか、生きているのか死んでいるのか分かりません。中年の方に多いようです。

東京には山谷、大阪には釜ヶ崎という家も家族も持たずその日その日の生活をしている人々が集まっているところがあります。

私がそこに行った時、その中に元大学の教授であったり、会社の重役であったりした人達もおられて、彼らから話を聞いたことがあります。

ある日突然人生の虚しさを感じた、というのです。子どもたちは成長して家を出、夫婦だけの生活になります。人生とは一体何か。

朝から晩まであくせくと一生懸命に働き、子どもたちを育て上げ、それぞれが巣立ってしまうと、ふと、人生とはこんなものか。一体人間とは何かと幻滅を感じ、失望し、
そして家を出てしまったというのです。


何も言わず着替えも持たず、人生の吹き溜まりと言われる所に来てその日その日の暮らしをする。お金があれば酒を飲む。生きていく目標を失い、気力を失ってしまったというそのような人が少なからずおられました。


神を知らない人の魂は空虚です。

私たちがイエス様を信じなさいと伝道し、教会にいらっしゃいと誘うのは献金欲しさでしょうか。出席者数の増加を期待してしていることでしょうか。

空しい人々に生きる意味を教え、望みを持たせ、この虚しさから逃れる道を教えるためではないでしょうか。

私たちの人生から神様を取り去ってしまったら、食べるためにひたすらあくせくし、食べ物をあさることが楽しみな犬や豚と何の違いがあるというのでしょうか。

死んでしまえば全て無くなってしまう、神様がおられない人生とはなんと空しいものではないでしょうか。そう思いませんか。


2節は“やみが大いなる水の上にあり、”と続けます。

神様がいない人生はこのように混沌というだけでなく真っ暗です。

このような混沌、暗闇の状態にある人生を神様は造り変えられます。

どのようになるのでしょう。3節以下を読みます。

“そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。

神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。

こうして夕があり、朝があった。第一日。”


 神様は一日目に光を創られました。

神を知らない人を救うために、まず最初に神様は人の暗い心の中に、み言葉によって光を下さるのです。

皆さん、この話を覚えていますか。

イエス様が朝早く神殿で祈っておられるとき、パリサイ人達が罪の現場からそのまま引きずってきた女を連れてきました。

そして「モーセの立法では、罪を犯した女は石で打ち殺せとあるが、あなたはどうするか」と迫りました。

その時イエス様は何と言われたでしょうか。

「あなた方の中で罪のない人が最初に石を投げなさい」と言われました。

そして誰も石を投げる者がいなかったのです。

どうしてでしょうか。イエス様のみ言葉が真っ暗な心の中に光として入ったからではないでしょうか。


真っ暗な闇に光が差し込むと今まで見えなかったものが見えるようになるように、自分の心に光が入ってくると、今まで義人だと思っていた自分が、罪人であることが見えるようになるのです。ですから誰も石を投げることができませんでした。


誰かが悔い改めなさいと言ったからといって悔い改めることができるわけではありません。

神様のみ言葉が心の中に入って照らす時に、自分の凶悪な、汚れた醜い私、趙 淇善の姿が見えるようになるのです。これが神のみわざです。

神様のみ言葉が私の心に入って来なければ、だれがどんなことを言っても自分がどういう人間かということを知ることもできないのです。

光が入らなければなりません。

神のみわざはまず光が心を照らすところから始まるのです。



次に第2日目に行きましょう。6節から8節までを読みます。


“ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。”


2日目には大空、天が作られました。
皆さん、失望することがあったときうなだれていると何の希望も持てませんが、天を仰ぐとき「ああ、私は大丈夫だ」と思いませんか。
大空、天は私たちの希望を呼び起こします。


先ほど光の話をしましたが、光が私の心に入ると自分の醜さが明らかにされるので、「趙淇善、これは大変なことだ。こんな醜悪な者がどこにいるか。ほんとに私は全く救い難い人間だ」と失望するのです。

けれども、大空が見えます。天を仰ぎます。ここに希望が出てくるのです。

皆さん、いつでも上を見上げましょう。


英国の孤児院の創始者、ジョージ・ミュラーという方はお金がない中でも、ただ神様を信じ、頼ることによって多くの孤児達を養いました。その彼の実話の中に、このような話があります。


ある雪の朝、数百人にもなる子供たちが食堂に集まっているのに食べさせるものがありません。

心配する人々に「神様が下さるから大丈夫。食膳の祈りをしなさい」と彼が言ったちょうどその時、馬車の音がして、パン工場の主人が「今朝祈っていると孤児院にパンを持っていくようにと示されたので持ってきました」とたくさんのパンを置いて行ったのです。
ミュラーは涙を流しながら「おお、主よ。感謝いたします。」と主を褒めたたえました。そして「サタンは私たちの周囲に壁を作ってふさぐことはできるが、蓋をすることはできない」と言ったのです。


サタンは私たちを封じ込めても、天につながる蓋をすることはできません。たとえ獄につながれても天の神様と通じることができます。

パウロを見てください。ペテロを見てください。手足を鎖で縛られても、賛美をしている時地震が起こり、手足の鎖が切れ、獄門が開いて外に出ることができたのです。

上をふさぐことはできません。ハレルヤ!
大空、これは希望です。サタンは蓋をすることはできません。

周囲だけを見れば失望、落胆することばかりです。もうこれでおしまいだ。望みがない、と思うのです。

けれども皆さん、そのようなときには上を見上げなさい。
天を仰ぎなさい。

そこには十字架があり、主の御座があります。

人の顔色や、思惑等、横を見ないで天を仰ぎなさい。そこに望みがあります。



次に3日目です。

9節から13節までです。

“神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」と仰せられた。

するとそのようになった。

神は、かわいた所を地と名付け、水の集まった所を海と名づけられた。

神は見て、それをよしとされた。

神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。

それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類に従って、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。

こうして夕があり、朝があった。第三日。”


3日目には地と海が創られました。

地に色々な植物が生えて実を結ぶようになったから、そのあと動物が創られてもそれを食べて生きていくことができるのです。

地は神様の愛です。


次に4日目です。
14節から19節を見ましょう。
“ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、年のために、役立て。
天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。
それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それを良しとされた。
こうして夕があり、朝があった。第四日。”


ここで太陽と月という二つの光る物と星が造られました。
ヨハネ伝8章12節で「私は世の光です」

また、マタイ伝5章14節で「あなたがたは、世界の光です」と言われたイエス様の言葉から、この光る物の創造の業を霊的に解釈すると、太陽はイエスキリスト、月は信じる聖徒を示します。

そして星は先に召された聖徒達、または天使達を意味します。

神のみ言葉が私たちの心に入って光となり私たちが自分の姿が見えるようになった後、

その光が二つに分かれて主ご自身であるイエス様の光と、イエス様の光を受けて反射する月のような役割を私たちはこの世に対して果たさなければならないということを私たちは教えられるのです。


次に5日目です。

20節から23節を読みましょう。

“ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。

それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」

こうして夕があり、朝があった。第五日。”


4日目までは植物だけしかなかったので、この地球上に何の音声もなかったのです。

しかし5日目に作られた鳥や水の中の生き物、6日目に作られた生き物、家畜や、はうもの、その種類に従って造られた野の獣たちの声が響くようになりました。

皆さん、もしこの地球上に人も動物もいなければ、死の世界のように静まり返っていることでしょう。

同じように光が入って神の愛を悟り、イエスキリストの光を受けて救われたらその魂は生き生きと動き、声を上げずにいられなくなります。
沈黙していた救われる前の魂は救われるとじっとしておれなくなるのです。


次に6日目です。

26節から31節までを読みましょう。

“そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。

また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物としてすべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。”


神様は人を「われわれに似るように、われわれのかたちに、」造られました。

救いの終局、聖徒達の最後の姿はこのように神のかたちに似ていくことなのです。

これをはっきりと覚えておいてください。

心に銘じてください。

私達イエスを信じる者たちが信仰生活をするその目標はイエスキリストに似ていくことです。

パウロはガラテヤ書で“私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなた方のために産みの苦しみをしています。”と伝えました。

イエスキリストが私たちのうちに形造られるのです。それが私たちの救いの完成です。

いつもイエス様を思ってください。

イライラした時にも、イエス様のことを思ってください。

怒りがこみ上げてくる時にもイエス様を思ってください。

何か不愉快なことがあってもイエス様のことを思ってください。イエス様のみ姿を思い出してください。

そしてイエス様がうちに形造られるように願ってください。

これが私たちの信仰の目標です。


礼拝堂を立てるのも、伝道して会員が増えるのも、献金がたくさんなされるのも目標にはなります。けれども、何よりも重要なことは、聖徒一人一人の心のうちにイエスキリストが形造られることです。信仰の極致です。

これが目標でなければ、礼拝堂を立てても信徒が増えても豊かになっても何の意味もありません。

イエスキリストが私のうちに形造られること、これが教会の最高の目標で、信仰生活の最高の目的なのです。

心に銘じてください。

これに向かって行かないから人間的な匂いがし、不平不満がたまってしまいます。

イエスキリストが私のうちに形造られること、これが最高の目標です。


最後に7日目を見ましょう。

2章1節から3節までです。

“こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。”


キリストが私のうちに形造られたら、その時に本当の安息があります。

平和です。心配がありません。誰の顔色を見ることもありません。

聖徒達と会えばお互いに嬉しくなるはずです。それが教会ではありませんか。

皆さん、主がうちにおられるならばどのようなことにも勝利することができます。

喜びがあります。平和があります。安息があります。

主と近く交わることができるのです。

「主よ、どうしてこんなにも私を愛してくださるのですか。助けてくださるのですか。大事にしてくださるのですか。」という祈りが自然に出てきませんか。

このような恩寵の一年になることを願います。祈りましょう。


愛する主よ。私の心を開きます。心の門を開きましたから私のうちに入ってくださり、今年一年の生活の中で私の心を守り導いてください。

真の平和があり、真の喜びがあり、真の安息があるようにしてください。

おお主よ、私と共にいて下さい。共に歩いてください。

イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。


1988年1月3日